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山寺で蝉は鳴いていたのか?『名著の話 芭蕉も僕も盛っている』(旅の本)

山寺で蝉は鳴いていたのか?『名著の話 芭蕉も僕も盛っている』

伊集院光さんが聞き役をつとめるNHK「100分de名著」の大ファンで、かなり古いエピソードまでオンデマでチェックしています。
その中でも、特に印象に残ったのが俳人・長谷川櫂さんが解説した松尾芭蕉の『おくのほそ道』です。

東北を旅すると、芭蕉の句碑に出くわすことがあります。
芭蕉は「ここでこの句を詠んだのかぁ」とその一瞬は感心するのですが、そんな気持ちもつかの間のことで、句碑をながめて風景を見ただけでは、その感動もあっという間に消えてしまいます。

山寺やまでら立石寺りっしゃくじ)で詠まれた〈しずかさや 岩にしみ入る 蝉の声〉という句があります。
山寺に行ったとき、芭蕉がこの句の着想を得たという「せみ塚」に立ち寄りました。その日は8月で、蝉が鳴いていたことを思い出します。でも、そのときは「蝉の声」と「閑かさや」の関係については考えもしませんでした。

それからしばらくして、長谷川櫂さんが解説する「100分de名著」を見て、『おくのほそ道』の奥深さに気づき、芭蕉をリスペクトする私が爆誕しました。
そのエッセンスが楽しめるのが、伊集院光さんと長谷川櫂さんの対談『名著の話 芭蕉も僕も盛っている』です。

「おくのほそ道」の旅に行く3年前に芭蕉が詠んだのが〈古池や 蛙飛こむ 水のおと〉です。
芭蕉は〈古池や〉の句において、現実の世界と心の世界を融合させる一大革命を起こしたという長谷川櫂さんは述べています。さらに〈閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声〉も〈古池や〉と同様に芭蕉の心の世界を詠んだものだというのです。

むしろ「うるささや」ですよね(笑)。「閑かさや」と置けるのは、(略)次元が違うからです。
これは心の静けさであって、蝉が鳴きしきる現実の向こうから静まりかえる宇宙が姿を現わす。この「閑かさ」は宇宙的な閑かさですよね。(略)
だからこの句は、心の世界である「閑かさ」をさきに、現実の「岩にしみ入る 蝉の声」をあとに置いているんです。

芭蕉はこの句の直前に「崖っぷちを巡り、岩を這ったりして仏閣を拝むと、あたりの美しい景色はただひっそりと静まりかえって、心が澄みきっていくように感じられた。(岸をめぐり、岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。)」と書いています。

江戸時代、いまよりも深山のなかにあっただろう立石寺。いまあるような階段はなく、険しい山道を這うようにして登っていくなかで、芭蕉の心に宿った「閑かさ」。

現実の世界で蝉はみんみんとうるさく鳴いていたかもしれないけれど、芭蕉の心のなかは「閑かさ」に満ちていたんですね。
長谷川櫂さんの解説で、そんな芭蕉の心情が少しだけわかったような気がしました。

『名著の話 芭蕉も僕も盛っている』には、『おくのほそ道』には芭蕉の創作(フィクション)も含まれていることも書かれています。芭蕉は“盛っていた”のです。

春夏は庭と畑で雑草に追われる日々。
その合間をぬって日帰りか一泊くらいの鉄道旅。

グラウンドカバーにクラピアを育て、畑は小さな家庭菜園。
一人で快適に暮らす方法なんかも考えています。
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