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歴史の無常さを感じながら、古き都を歩く旅(平泉)

歴史の無常さを感じながら、古き都を歩く旅(平泉)


平泉の主な見どころは徒歩か自転車でまわれる範囲にあります。(達谷屈毘沙門堂たっこくのいわやびしゃもんどうはちょっと離れていますが)ハイキングするくらいの気持ちでいくとよいかもですよ。

平泉で有名なのは世界遺産に登録された中尊寺ちゅうそんじ毛越寺もうつうじ、それと寺院跡(観自在王院跡かんじざいおういんあと無量光院跡むりょうこういんあと)でしょう。でも、義経堂のある高館たかだちはすごくよかった!
「時間があったら行ってみて」的な場所かと思っていましたが、高台なので眺めも素晴らしいし、奥州藤原氏滅亡がここからはじまったのかと実感できるところでした。

平泉を歩く-こんなルートで歩いたよ

まずは平泉駅から義経ゆかりの高館たかだちを経由して中尊寺ちゅうそんじをめざします。中尊寺から金鶏山きんけいざんの登山口までの間に源義経妻子の墓があります。毛越寺もうつうじでお庭を眺めて平泉駅に戻ってきます。
金鶏山は登山口までで登っていません。

平泉駅→無量光院跡むりょうこういんあと*→高館義経堂→中尊寺*(旧覆堂ふくどう・中尊寺経蔵きょうぞう金色堂こんじきどうなど)→金鶏山*登山口→源義経妻子の墓→観自在王院跡かんじざいおういんあと*毛越寺*→平泉駅
*構成資産:世界遺産の価値を具体的に証明するものとして選ばれた文化財です。

拝観の待ち時間や休憩を入れずに約3時間でした。汗をかく季節は水分休憩が必須です。

(平泉・岩手)

中尊寺参道はだらだらとした坂道が続きます。

ブラタモリで参道を歩いたタモリさんが「『あれ?いつの間にこんな高い場所まで上ってきたの?』」と驚いたように中尊寺は「高さ100m長さ約1kmの崖の上に」建っています。*1

峯薬師堂や大日堂などのお堂や神社がところどころに建っているので、てくてく歩いて拝観しながら中尊寺金色堂をめざします。

高館から見た平泉がいい!

平泉駅から中尊寺に向かう道すじに源義経が最後を迎えた高館たかだちがあります。

高館は奥州藤原氏の居館(屋敷)があったところで、源頼朝と対立した義経はこの一画に屋敷をあたえられ、かくまわれました。
小高い丘のうえ、坂道と階段をのぼった先に義経堂があります。

藤原清衡(初代)のころからこの一帯の地形は防御に優れていると考えられていました。ここに屋敷をあたえられたということは、義経は厚遇されたのでしょう。

高館義経堂(平泉・岩手)

「高館からの眺望は平泉随一」*2といわれる通り、遠方に束稲山(別名・東山)を臨み、手前には大きくうねる北上川が流れます。平泉の東側が一望できるすばらしい眺望です。

ここは「おくのほそ道」の道中で松尾芭蕉が立ち寄り、「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」と詠んだところでもあり、石碑が建てられています。

高館義経堂(平泉・岩手)

江戸時代に仙台藩主が義経を偲んで建てた義経堂が坂の上にあります。桜がいつ植えられたのかはわかりませんが、花の季節は山道も華やかになります。

奥州藤原氏と源頼朝Q&A

アオ
アオ

高館に行ってみたらとてもよかったので、
奥州藤原氏と源頼朝との関わりをQ&Aにしたよ。

Q
源頼朝はなぜ奥州藤原氏を滅ぼしたの?
A

奥州藤原氏が滅びれば、武士が源氏だけになるからでしょう。

古くから源氏は東北地方と因縁があります。
奥州藤原氏が台頭するのは、後三年の役によって出羽国の豪族清原きよはら氏が滅びたことによるものです。この戦乱に頼朝の4代前にあたる源義家(頼朝のひいひいひいおじいさん)が深く関わっています。

陸奥守に任命された義家は関東の武士集団(坂東武士)を動員して戦乱を収束させます。しかし朝廷は義家の功労を認めず、戦費の支払いも拒否されてしまいます。

義家は坂東武士に私費で報奨を行います。これによって関東における源氏の名声は高まり、頼朝の時代に坂東武士が源氏につくことになったといわれています。

Q
金色堂以外の建物や宝物があまり残っていないのはなぜ?
A

火事で燃えてしまったからです。

焼失した理由や時期はそれぞれ異なりますが、奥州藤原氏最後のとき、泰衡が柳之御所やなぎのごしょ平泉館ひらいずみのたちに火を放ったというのが衝撃的です。

1189年(文治4)奥州藤原氏を追討する源頼朝軍が鎌倉を出発します。
泰衡は陸奥国宮城郡(仙台市)に布陣しますが、頼朝は28万騎ともいわれる大軍を組織して、凄まじい勢いで迫ってきます。(28万騎はかなり盛った話らしいのですが、それでもめちゃくちゃな大軍だったようです)

泰衡は迎え撃つことをあきらめ、北へと敗走
します。
平泉に立ち寄ることは叶わず、ただ通り過ぎるのみでしたが、従者に平泉館に放火するように命じ、倉庫一棟を残してすべてが灰になりました。
頼朝が平泉に到着したのは、平泉館が焼失した翌日です。

奥羽統治の拠点だった平泉館は、無量光院の近くにあったと考えられ、その近くには泰衡の居館、加羅御所からのごしょもあったと考えられています。

藤原氏を失った平泉はその後、火災によって多くの建物や宝物を失います。

中尊寺は建武四年(一三三七)の火災で焼失(『平泉旧蹟志』)、現在では金色堂・経蔵のみを残すばかりであるというし、毛越寺については嘉禄二年焼亡との記録(前出『吾妻鏡』)もあって当時の堂塔等はすでにない。

高橋崇『奥州藤原氏』中央公論社、2013年

平泉から足をのばす

餅を食べに一関に行く

私は一関で餅をたらふく食べて平泉に移動しました。餅の聖地だそうですよ。
一ノ関駅から平泉駅まで東北本線で2駅です。

平泉に行く(東京からのアクセス)

平泉は岩手県の南に位置する街です。一ノ関駅で東北本線に乗り換えて2駅です。

  1. 東京駅→東北新幹線→仙台(乗り換え)→東北新幹線→一ノ関駅(乗り換え)→東北本線→平泉駅[2時間10分~]
  2. 東京駅→東北新幹線→仙台(乗り換え)→高速バス(東日本急行)→平泉駅・中尊寺[3時間20分~]

春夏は庭と畑で雑草に追われる日々。
その合間をぬって日帰りか一泊くらいの鉄道旅。

グラウンドカバーにクラピアを育て、畑は小さな家庭菜園。
一人で快適に暮らす方法なんかも考えています。
自己紹介

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<参考>
*1.『ブラタモリ9』KADOKAWA、2017年
*2.岩手県平泉町「高館義経堂」https://www.motsuji.or.jp/gikeido/index.html
*3.高橋崇著『奥州藤原氏』中央公論社、2013年
*4.佐藤嘉広「平泉-奥州藤原氏の首都」、佐藤信編『古代史講義【宮都篇】』筑摩書房、2020年

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