足利(あしかが)日帰り旅の続きです。
ココ・ファーム・ワイナリーから帰りのバスを足利学校の横で降ります。
足利学校-歴史オンチのQ&A
最初に行ったのは、“日本最古の学校”足利学校です。
歴史オンチすぎるので、
足利学校をわかりやすくQ&Aにしましたよ。
- Q足利学校はどんな学校だったの?
- A
日本各地から生徒を集め、儒学に加えて、医学、兵学、易学、天文学など広範な分野の教育を行う総合大学といえるものでした。
特に易学の評判は高かったといわれています。足利学校のシンボルといえば「学校門」です。見どころの一つですね。
学校門には「学校」と書かれた扁額が掲げられていますが、なぜ学校門には「足利学校」と書かれていないのでしょうか。「学校」が日本に一つしかないころは、何々学校と名乗る必要がなかった。他との区別の必要が全くないから、足利学校の学校門の扁額は「学校」としか書かれていない。
橋本昭彦「近代日本の学習と教育のネットワーク」、五十嵐敬喜他『近世日本の教育遺産群を世界遺産に』ブックエンド、2021年
なるほど!
中世の日本で「学校」を名乗るところは、足利学校だけだったんですね。
- Q足利学校はいつできたの?誰がつくったの?
- A
足利学校を創設したのは、足利義兼(尊氏より6代前)とも、足利尊氏とも、小野篁(おののたかむら)ともいわれていますが、その始まりはよくわかっていません。
小野篁は井戸を通って閻魔庁に出勤していたという伝説の人ですよね。
足利学校の建物にイケメンの篁さんパネルがありますよ。
- Q足利学校はなぜ有名だったの?
- A
戦国時代の合戦において、兵をいつ出すか、退くかを決めるときに占いの技術、卜筮(ぼくぜい)が用いられていました。
足利学校の卒業生は卜筮の権威として重んじられ、九代目校長の三要(さんよう)は徳川家康に仕え、関ヶ原合戦で軍師役を務めています。
軍師というと私は諸葛孔明をつい連想してしまいます。
足利学校-禅僧(和尚さん)スタイルで学ぶ
足利学校の方丈(儀式や行事に使う広間)にある広縁に座ると、街の中とは思えないほど、よい風が吹いてきます。
南と北にある庭園はいずれも築山泉水(つきやませんすい)式で、孔子の教えを学ぶのにふさわしい厳格さが感じられて、“学校の庭”という趣です。
中世において儒学の知識は禅僧が担っていたので、足利学校の建物には禅宗寺院の様式が取り入れられ、僧服を着た教師が教え、僧の姿をした生徒が学んでいました。
和尚さんの姿をした人たちが、足利学校の建物や庭を行き来するシーンを想像してしまいました。
現在の足利学校は、発掘調査や文献資料に基づき、江戸時代中期の姿に復元されたものです。
- 国指定史跡:足利学校の跡(聖廟および附属建物)
- 国宝:宋刊本 文選(もんぜん)をはじめとする中国宋代の書
鑁阿寺-地元で愛されるお寺
足利学校から5分ほど歩いたところに鑁阿寺(ばんなじ)があります。近いです。参観料は無料です。
寺院になる前は武士の邸宅「館」だったので、寺のまわりには土塁が築かれ、水堀には鯉が泳ぎ、いまも武士の屋敷としての片鱗が残っています。
足利義兼(尊氏より6代前)の館の中にあった持仏堂(堀内御堂)が鑁阿寺のはじまりで、広い境内に校倉造りの宝庫、蛭子堂、大酉堂、出世稲荷など、たくさんのお堂があります。
鑁阿寺の本尊は大日如来なので、足利の人は鑁阿寺を大日様と呼び、初詣も(神社ではなく)大日様、七五三も(神社ではなく)大日様なのだそうです。
楼門(山門)の近くに大日茶屋があります。足利しゅうまい、じゃがいも入り焼きそば(栃木市のご当地焼きそば)があるのですが、お腹が減らず今回は断念です。
- 国宝:鑁阿寺本堂
- 重要文化財:鑁阿寺鐘楼、鑁阿寺経堂
鑁阿寺参道(大日大門通り)
鑁阿寺の参道にあたる大日大門通り(石畳通り)には、あまから家などの飲食店や土産物店が並びます。アンティークの着物や食器が並ぶレトロな雰囲気の蘭と月もこの通りにあります。
「渡良瀬橋」で歌われた八雲神社も大日大門通りにありますよ。
足利学校、鑁阿寺の次は、少し歩いて足利織姫神社に向かいます。
足利に行く(東京からのアクセス)
足利は関東平野の北西にあり、首都圏から近く行きやすいところです。(北東北自動車道足利ICが近いので車だとさらに行きやすい)
- 東武浅草駅→東武伊勢崎線(有料特急)→東武足利市駅[約1時間]
- 東京駅→東北新幹線→小山駅(乗り換え)→両毛線→足利駅[約1時間30分]
<参考>
日下部高明・菊地卓著『新訂 足利浪漫紀行』随想舎、2006年
五十嵐敬喜他『近世日本の教育遺産群を世界遺産に』ブックエンド、2021年